帰国してすぐの頃、親戚の叔父が現金で100万円をくれた。
封筒に入った札束を、両手で受け取った。アメリカから戻ってきたばかりで、家も仕事も何も決まっていない家族に、何も言わずに渡してくれた。頭を下げながら、情けないやら申し訳ないやらで、うまく顔が上げられなかったのを覚えている。
このお金には手をつけない。
そう決めた。本気で決めた。何かあったときのために置いておく、それだけは守ろうと。
先に結論を書いておく。そのお金は、今はもうない。
食えなかった
帰国して1年、俺はスーパー銭湯でもみほぐしの仕事をしていた。
指名がつけば少しは違ったんだろうが、そんな器用な人間でもなかった。1日中人の体を押して、腰と親指を痛めて、それで手取りがいくらか。計算するたびに、これは無理だと思った。
40を過ぎて、この先これで家族を食わせていくのか。毎晩そんなことばかり考えていた。
そこに、話が来た。
「これは自分のためにある」と思った
海外転売だという。日本で仕入れて、海外に高値で売る。しかも在庫を持たなくていい。メインの商材は中古のギターだと言われた。
聞いた瞬間、体が前のめりになったのが自分でもわかった。
英語は問題ない。20年向こうにいたんだから当たり前だ。eBayも知らない世界じゃない。向こうでは会社の規模で扱っていたし、自分でも個人で片手間に売り買いしていた。ギターは自分で弾く。若い頃には楽器屋で働いていたこともある。
——これは、自分のためにある話じゃないか。
そう思った。心の底からそう思った。無料の説明会には何度か足を運んで、正直、入会は迷っていた。安い金額じゃない。でも周りには実際に稼いでいる人間がいて、まだ始めたばかりの初心者もいて、その中で俺は「自分は少しアドバンスだ」なんて思っていた。
いま振り返ると、この足し算がまずかった。会社でやっていた経験と、個人で片手間にやっていた経験を、頭の中で勝手に合算していたんだ。会社には仕入れルートも資金も人手もあった。片手間の売り買いは、儲かろうが損しようが生活には響かない額だった。そのどちらも、たった一人で生計を立てる話とは、まるで別物だったのに。
再現性が高い、というのが謳い文句だった。
締めて80万円。手持ちなんてあるわけがないから、クレジットカードで払った。元は取れる。取れるに決まってる。
叔父の100万には手をつけなかった。そこだけは守った。守ったつもりだった。
3ヶ月、4ヶ月
やった。教わったとおりにやった。ギターの相場を調べて、出品して、問い合わせに英語で返して。
売れなかった。
正確に言えば、まったくのゼロではない。ただ、生活が成り立つ数字にはまるで届かない。1ヶ月経ち、2ヶ月経ち、そのあいだも当然、家賃も食費もかかる。もみほぐしの仕事は減らしていた。せどり1本で行くと自分を追い込んだからだ。追い込めば結果が出ると、なぜか信じていた。
カードの支払い日が来る。払えない。リボにする。翌月も来る。また払えない。
一度あの渦に入ると、自分が今いくら借りているのか、だんだんわからなくなってくる。数字を見るのが怖くなって、見ないようになる。見ないから、増える。
気づいたら、なくなっていた
最初の1枚をいつ抜いたのか、実は覚えていない。
一度に使ったわけじゃないんだ。今月だけ、あと少しだけ、来月には戻す。そうやって少しずつ減っていった。1万円が2万円になり、そのうち数えなくなった。
数えなくなった時点で、もう終わっていたんだと思う。
そして、ある日ふと見たら、なかった。
あのとき両手で受け取った封筒の重さも、頭を下げたときの気まずさも、全部覚えているのに、その100万がどこへ消えたのかだけが思い出せない。80万のスクール代のほうは、まだ説明がつく。バカな買い物をしたという事実が残っている。でもこっちは違う。何に使ったかもわからないまま、手をつけないと決めた金が、静かになくなっていた。
いまだから言えること
海外転売は、そのあとスピードを落として副業として細々と続けた。生計を立てられるようなものにはならなかった。
あれから何年も経って、ようやく言葉にできるようになったことがひとつだけある。
危なかったのは、金を払った瞬間じゃない。「これは自分に向いている」と思った瞬間だ。
英語ができる、ギターがわかる、転売の経験もある。あの商材は、まるで俺のために用意されたみたいだった。だから疑わなかった。むしろ、自分だけは行けると思った。慎重に迷ったつもりでいて、迷っていたのは金額のことだけで、話の中身を疑ってはいなかった。
しかも厄介なことに、経験がある分野ほど、この錯覚は起きやすい。何も知らなければ、さすがに一歩引く。中途半端に知っているから、自分の物差しで測れる気になってしまう。
売る側からすれば、それでいい。誰かにとっての「自分のためにある話」を並べておけば、どれかに誰かが手を伸ばす。
いま、何か儲け話を前にして「これは自分に向いている」と感じている人がいたら、そこで一回止まってほしい。その感覚は、あなたが有利だという証拠じゃない。
俺は80万を借りて払い、返せなくなって、触らないと決めていた100万を溶かした。それだけの話だ。
叔父は今も元気にしている。あの金がどうなったかは、知らない。
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